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Essay エッセイ

夏の思い出

夏の思い出

 わたしが子供の頃の東京は、今のように暑くなかった。暑い日でもせいぜい30度くらいの感覚だったと思う。セミの声が耳をふさぎたくなるほどうるさくて、ちょっと油断すると甘いものに蟻が行列を作った。窓を開け放して家じゅうに風を通して、それでも物足りないときは扇風機に顔をくっつけるようにして目をつぶった。外に出ても風を顔に感じたくて、袖なしの木綿の服にゴム草履、麦わら帽子をあごのゴムで止めて、ぐんぐん風を切って走った。クーラーの涼しさを感じるのは、デパートの一階に入った瞬間や、喫茶店でバニラアイスクリームを食べるときぐらいだった。

 学校が夏休みになると毎年、家族四人で湯河原に出かけた。父は、仕事を休んでどこかに行こうとするとどこにも行けないからと、万年筆と原稿用紙の束を持ち込んで気のおけない宿に連泊するのを好んだ。がらんとした畳の部屋に走りこむと、ひんやりとしたイグサの感触を裸足の裏に感じた。宿の人がラムネを運んできてくれるが、炭酸の飲みものが苦手で飲めない。あのビー玉だけが欲しくて欲しくて、兄はわたしのぶんまで飲み干して庭で壜を割ってくれた。やっと取り出したふたつのビー玉は思ったよりきれいではなかったけれど、指でつまんで太陽にかざすと、プールの底から空を見上げたときのようにきらきらと光った。

 わたしと兄を海水浴に連れて行くのは父よりひとまわり以上若い母の役目で、父は砂浜に立てたパラソルの下で、波打ち際で遊ぶわたしたちを見て、煙草を吸っていた。ごくたまに父の気が向いて海に入ると言うと、とてもうれしくてわたしははしゃいだ。でもあっという間に砂浜に引き上げてしまうので、今度は父のビーチチェアの横に、大きな砂の城や、山とダムをつくった。日がな一日海で泳ぐのに飽きると、猿山に遠足に出かけたり、滝の近くで水しぶきを受けたり、スマートボールや射的をしたり、花火をしたり、海辺のレストランでカレーライスやナポリタンを食べたりした。

 夜は、宿の夕飯を食べたあと、散歩がてら近所の店にかき氷を食べに行った。母は氷あずき。兄はメロン、わたしはイチゴのシロップ。父は氷スイ、砂糖を溶かして氷にかけたもの。ある夜わたしが新しいメニューの「氷カルピス」というのを頼むと、父は、「スカしてるねえ」と言って笑った。帰り道、海の上の空を、流れ星がすっとかけぬけた。「あ、流れ星!」と指をさしたときにはもう、流れ星は見えなくなってしまっていた。願いごとをする暇なんて、誰にもないんだなと思った。特にどうしても叶えたい願いごともなかったけれど。

 毎年代わり映えしないこの家族旅行が、わたしは今まで経験したどんな旅よりも楽しかった。一点の汚れもない幸せを心に思い浮かべるとき、かならず真っ先にたどり着く、大切な夏の思い出だ。

Photo by MUKAI MUNETOSHI

Tags:

ラムネ, 万年筆, 原稿用紙, 夏休み, 家族旅行, 東京, 流れ星, 海, 願いごと

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