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Essay エッセイ

深夜の電話

深夜の電話

 深夜の電話は、甘い予感を連れてくる。

 突然で、身勝手で、わがままな。でも愛しくて、せつなくて、魅力的な。

 極上の誘いの前で、心は揺れる。胸の奥のほうで音がするくらい、揺すぶられる。決してドアを開けてはいけないと知っているのに。何もかも忘れて、先の見えない波間に飛び込んでしまいたい。こみあげる衝動が、波打ち際で行ったり来たりする。

 ひとこと、いいよって、言ってしまえば。

 濃密な時間の幕が切って落とされる。抑えていた感情が一点に向かってまっすぐに流れ出し、体じゅうの細胞がいっせいに沸き立つ。過去も未来も超えて、この刹那に酔いしれる。

 ひとこと、いいよって、言ってしまえば。

 でも、わたしは言わない。その言葉を唇の内側にぐっと押しとどめる。ドアを閉めたまま長い電話を切ったわたしは、ほっと安堵の息を漏らす。そこには穏やかな静寂とぬくもりのある空間が広がっている。

 正しい選択を悔んだり、何かを失ったような気持ちになったりしないように、わたしは口角を少し上げて微笑んでみる。シーツを胸元まで引っ張り上げて、覚めた目をそっと閉じてみる。

 深夜の電話。今度鳴ったら、いいよって、言ってしまいそう。

Photo by MUKAI MUNETOSHI

Tags:

わがまま, 予感, 選択

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